虐待当事者の声を第三者の人たちに拾ってもらう意味|未来を変える一歩

虐待当事者の声を第三者の人たちに拾ってもらう意味について体験談を寄稿してくださったのが、RASHISAワークスでも活動している碧月はるさんです。碧月さんには、虐待被害当事者の現状を知ってほしいという想いがあり、情報発信活動を続けています。

そんなご自身の貴重な体験を、social port上へ文章として掲載させていただきました。この記事では、碧月さんご自身がどんな体験をしてきてどんな想いで今活動されていらっしゃるのかを紹介します。

※本記事では当事者の強烈な経験を記事にしています。精神的にストレスになる可能性もあるのでご注意ください。

虐待被害当事者の現状を知ってほしい

「虐待被害当事者として現状を知ってもらいたい。」そんな気持ちで、およそ2年前からTwitter、noteにて発信活動を始めました。背景として、それまで目を背けてきた自身の過去と向き合わざるを得ない局面があり、散々迷い、悩んだ上で声を上げることを決意しました。

書き続けていく中で、やはり虐待サバイバーの現状は「知られていない」と強く感じます。もちろん関心を持ってくださる方、強い意志で虐待問題に立ち向かっておられる方も数多くいらっしゃいます。それでも尚、連日のように虐待のニュースが流れてきます。

「虐待被害の実情」「その後の後遺症がもたらす様々な苦しみ」「当事者の声と想い」まずはそれらを知ってもらうのが大切であり、「必要な支援について共に考えてほしい」という願いは、そこに付随してくるものであると私は思っています。

しかし、強く押しつけられると人は逃げてしまいます。痛みが大きければ大きいほどに、それを共に受けとめようとする側の手も痛んでしまうのです。

被害そのものがなければ、本来誰もこんな思いはしなくて済むのに。そう思うけれど、それを言っても何も始まりません。だからこそ私は、自分の言葉で伝えられることを書き続けようと決めました。

虐待が連鎖しない方法とは

「虐待は連鎖する」とよく言われます。実際、私の両親も虐待サバイバーでした。しかし、”連鎖していない事例”もたしかにあります。

連鎖を声高に叫ぶくらいなら、連鎖しない方法を探したい。そこに、未来への光があると私は思っています。

過酷な環境を生き抜いてきた人たちが、傷つける側に回ってしまう。そんな連鎖は、あまりにも悲しいです。

適切なタイミングで治療や保護、支援を受けられたなら、連鎖しなくて済んだケースが幾つあっただろう。そう思うと、悔しさでやりきれない気持ちになります。

現状苦しんでいる子どもと同じくらい、後遺症を抱えるサバイバーへの理解と支援は急務だと強く感じています。

文章を書いて生きることは手段でありゴールではない

私自身は話すことが苦手で、対人恐怖もあります。そんな私にできる唯一の方法が「書くこと」でした。「”文章を書くこと”で生計を立てて生きていきたい。」それは自身の展望として、たしかに願っています。ただ、私にとってそれはゴールではありません。

文章を書いて伝え、その先にある「変えたい現実を変える」ことこそが、私にとっての目標であり、書き続ける意味でもあります。

同じ思いをする人が一人でも減ってほしい。虐待被害そのものがなくなってほしい。困難だとわかっているし、「そんなのは不可能だ」と言いたくなる気持ちもわかります。でも、大人が諦めたら、辛い日常を今現在生きている子どもたちは、一体どうすればいいのでしょうか。

本来当たり前のことを求めているだけなのに、「それを”無駄だ”と切り捨ててしまいたくはない。」”きれいごと”を、諦めたくない。」という想いで、切り捨てられた側の子どもだった一人として、また現在も抱える後遺症に悩まされている虐待サバイバーの一人として、私は私にできることをしたいと思っています。

毎日ではなく可能なときだけでいいので、どうか、共に考えてほしいと心から願います。

虐待の原体験から伝えたいこと

私がこのように思うに至るには、さまざまな虐待の原体験がありました。母親との関わり、夜毎訪れる恐怖、家を飛び出し仕事を見つけるまでの過酷さなど、実にさまざまです。ここでは、私自身の経験談をお話ししたいと思います。

母親との関わり

母の日や父の日の広告を見るたび、喉元に苦い塊が込み上げてきます。

「ありがとう」

その言葉を伝えたいと願える親だったなら、どれほど幸せだったでしょうか。

私は、東北の田舎町で第3子として生まれました。幼少期の記憶は朧気ですが、部分的に蘇ったものは、浴槽の濁ったお湯の味です。抑えつけられた頭と、抗えない大きな手のひら。何よりも、お湯と混ざった白い体液の苦みを、40歳を手前にしてもなお、忘れられずにいます。

「子どもは二人で終わりにするつもりだった。予定外にあんたができて、仕方ないから生んだ。本当は”要らなかった”。」

初めて母にそう言われたのは、ランドセルを背負っていた年頃のことでした。

愛されている兄や姉と自分との違いはここにあったのかと、愕然としました。今なら、自分に非はないのだとわかります。しかし当時の私は「自分が生まれてきたから悪いんだ」と思い込み、自分という存在そのものが罪だと感じていました。

「80点のテストを壁に張り、褒めちぎられる兄。」
「マラソン大会を完走したからと、ごちそうを振舞われる姉。」
その傍らで、私は95点でも罵声を浴び、1位でなければ「根性なし」と言われ、両親の意に添わない発言をしようものなら容赦なく殴られました。あの当時の経験と痛みを、今でもはっきり覚えています。

母が振り回す竹製の定規。重くのしかかる父の身体。彼らにとって私は愛すべき存在ではなく、サンドバッグに過ぎなかったのです。

夜への恐怖

夜が来るのが怖かったことを、今でもまざまざと思い出します。軋むドアがぎい、と鳴る深夜11時から12時前後、酒臭い息と煙草の残り香を漂わせながら、父が寝室に入ってきました。

肌を焼かれた瞬間、痛みと熱で背中が反り返り思わず悲鳴を上げそうになった私。そんな娘の口を塞ぎ、あの男は「誰にも言うな」と繰り返しました。私の身体には、あの男のDNAが入っている。その揺るぎない事実が、今でも私を苦しめています。

ときどき、気がついたら朝になっていることがありました。下腹部の違和感から夜に何があったのかを察しましたが、失われた記憶の欠片を私は敢えてそのままにしていました。思い出したくなかったし、取り戻したくもない記憶だったからです。

両親は学歴至上主義で、国立大学以外の進路を頑として認めませんでした。しかし、私にとってそれは、好都合でもありました。私が生まれた田舎には大学がなく、通うには家を出るしかありません。

私はその時がくるのをずっと待ち続け、家を出たい一心で死に物狂いで勉強しました。

自身の決意

しかし高校生だったある日、突然糸が切れました。自分のなかのあらゆる感情が停止し、食事を一切受けつけなくなりました。みるみる痩せていく私に対し、両親はそれまでと変わらぬ罵声を浴びせ、勉強と通学を強要しました。

奪い取られずに済んだお年玉と、母の財布から抜き取ったお札。最低限の着替えだけを持ち、衝動的に家から飛び出しました。

川沿いの道を一人、ひたすら駅まで走り抜けました。無事に改札を抜けた私は激しい動悸を押し隠し、何食わぬ顔で電車に乗りました。

そこから先は、生きるために何でもしました。どんな仕事でも、どんな生活でも、あの家に戻るよりはずっとマシだったからです。

その後安全なアパートで暮らせるようになり、安給ではあるものの仕事にもありつけました。お風呂のお湯を沸かし、身体を浴槽に浸した夜。「とぷん」という音と共に、とめどなく涙が溢れたのを思い出します。

あの家では、安心してお風呂に入ることさえ許されませんでした。脱衣場の扉を足で抑えつけ、がらりと引き開けられるのを必死に食い止める。そんな毎日には、二度と戻りたくありませんでした。自分の肌を晒す相手くらい、自分で決めたかったのです。

仕事を見つける過酷さ

何とか仕事にありつけたものの、夜勤も含む仕事の手取りが10万円を切る月もありました。同じ仕事をしても、大卒や専門卒の人とは基本給が違い、その差額は10万円にも及びました。納豆さえ買えない月末、幾度となく布団のなかで嗚咽したものです。

履歴書には、理由を書く欄がありません。よって、何故高校を中退したのか、何故以前の職場をたったの数か月で辞めたのかを理解してもらうことは不可能でした。親の虐待とそれによる後遺症がもたらす、日常生活への大きな支障。その要因があって退学、離職したのだと伝える術が、私にはなかったのです。

仮に相手に伝えたところで、マイナスにしかならないと思っていました。「精神状態が不安定な人間は、企業に信頼されにくい。」その現実を知っていたから、何もかもを隠し、”普通”のフリをして生きていくしかありませんでした。

障がい年金制度との出会いと現実

お金にほんの少し余裕があるときだけ、精神科に通いました。重度の不眠を抱えていた私には、眠剤がどうしても必要だったからです。自立支援、障がい者手帳、障がい年金という制度があることさえ、当時の私は知りませんでした。

昨年になってようやく、信頼できる医師に巡りあえました。そこで初めて、自身の正式な病名が「解離性同一性障害」であることを知り、記憶の欠如に振り回される日々の根源を、ようやく理解できました。

医師の勧めもあり、障がい年金の申請を行い、現在は審査待ちです。審査には3ヶ月ほどかかる上、支援金が振り込まれるまでには、そこからさらに50日ほどかかる旨を先日担当者から説明されました。

今すぐ支援が必要なのに、実際には申請までに半年、審査までに半年と、トータルでおよそ1年もかかります。その間、どんなに心身の状態が苦しくとも、働かなければ生きていけません。頼れる実家もなく、パートナーなど拠り所にできる相手もいない場合、一人きりで生きていくしかないサバイバーは、1年という年月をどうやって凌げばいいのでしょう。

虐待被害の実際と後遺症への苦しみ

虐待被害に遭ったという事実に対し、被害者側には本来何の落ち度もないはずなのに、何故か救いの手はなかなか差し伸べられないという現状は否めません。

夜道を裸足で走って逃げたとき、周りの大人たちは誰一人声をかけてくれませんでした。青紫色に腫れあがった背中の痣を担任に見せたとき、見て見ぬふりをされました。父の行為に母は気づいていたはずなのに、一度も助けてくれませんでした。

虐待は、”その環境から抜け出して終わり”ではありません。”トラウマ治療にかかる費用”も、”思うように働けないのに毎月かかる生活費”も、被害に遭った本人が自力でどうにかするしかないのが現状です。

「大人になってまで親のせいにするな」

「自分次第で何とでもなる」

そんな言葉をあちらこちらで見かけます。その考えのすべてを間違いだと言いたいわけではありません。ただ、生き残った者の一人として、どうしても伝えたいことがあるのです。

「大人になっても尚、後遺症に苦しみ、日常生活に支障をきたしている人」もいます。また、自分次第ではどうにもできなかった過去のせいで、「”当たり前の日常”を手に入れることさえ困難な人」もいます。せめてその事実を知ってほしいと、強く願います。

「自力でどうにかできた」人がいるのと同じように、「どうにもできなかった」人もいます。前者の努力が並大抵のものではないことを充分踏まえた上で、後者の努力が足りないと言いきってしまうのは、あまりにも乱暴であると私は思います。

「自己責任」では片づけられない現実が、この世にはあるのです。

未来を変える一歩|虐待被害当事者の声をほかたちに伝える

「当事者の声を、当事者以外の人たちに拾ってもらう。」その先に、未来を変える一歩があると私は思っています。当事者だけでどうにかできる範囲を、もうとっくの昔に越えているからです。

子どもが亡くなるニュースに胸を痛めている人をたくさん見かけます。だからこそきっと変えられる、人の痛みを自分ごとのように感じられる大人がこんなにもいるのだから、きっとできることはあるはずです。

どんなに泣いても、喪われた命は返らない。壊された心は、完全には元通りにはなりません。喪ってから幾ら騒いでも、もう取り戻せないのです。

生き延びた。ただそれだけの私だけど、だからこそ伝えられるものがあると、少なくとも今はそう信じて、この文章を書いています。

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この記事を書いた人

碧月はる

ライター、エッセイスト。各メディアに連載エッセイ、コラムを寄稿しています。インタビュー記事、レポート記事、シナリオ作成等の実績もあり。
note私設コンテスト「Muse杯」にてグランプリを受賞。
海と珈琲と二人の息子を愛しています。