親ガチャ問題について|虐待当事者とともに考える親ガチャ論争

2021年9月半ばごろから話題になった親ガチャ。虐待問題の領域では、毒親という言葉が用いられてきましたが実際に当事者の方々はどのように考えているのでしょうか。

2021年9月30日に虐待被害の当事者であるAさん・Bさん・Cさんの3名の方に下記の記事をシェアし読み合わせをした上で直接お話を伺ってみました。本記事ではその様子をお伝えします。

「親ガチャ、ハズレだったわー」は失礼? 不快だと感じる人に考えてほしいこと【臨床心理士が解説】

親ガチャに対して当事者はどう思うのか?

Aさん

拝見した記事には、後半に凄く虐待サバイバーの人に対するフォローが入っている記事だなって感じました。

「親ガチャ」という言葉が生まれたのは、本当は後半部分のところから生まれたものだと思っていて。親を選んで生まれてきているみたいな言葉に苦しんでいる側が、ちょっと気持ちが楽になれるようにっていうところ。

 

自分が選んだんじゃなくて、当たり外れじゃないですけど、何が出てくるか分からないみたいな。

親は選べなかったっていう概念で虐待サバイバーやアダルトチルドレンという人たちの気持ちを和らげる言葉として使われる分にはあまり問題視されてなかったと思うんです。

 

それが、どんどんと言葉だけが1人歩きしちゃって、親とちょっとうまくいかなかったとか、ちょっと喧嘩しちゃったとか、そういうときに昨日喧嘩しちゃって今嫌になってるから親ガチャハズレだったみたいな。

 

すごい軽いニュアンスで学生さんたちが使うようにもなっていて、貧富の差とかっていうのはもちろんあると思うんですけど、やっぱりそれにも限度があるというか。

 

給食費も払えないという状態だと正直子どももしんどいと思いますね。かといって欲しいもの全部買ってもらえないから親ガチャハズレだったって言っていいのか?ってなると、それはちょっと違うんじゃないの?と思うんですよね。

 

だから、どういうニュアンスで使うのかっていう部分によって賛否が分かれるのかなって個人的に思っていて、ひとつ思ったのは「子どもガチャ」っていう言葉だけは流行らないで欲しいなと思いましたね。

 

子どもガチャがハズレだった、なんて言われた日には、子どもはたぶん立ち直れないし。親ガチャは別にいいと思うんですけど、じゃあ、こっちだって子どもガチャハズレだったわって親側は絶対言っちゃいけないと思っているので、それだけは本当に頼むよって思ってます。

ごっちゃん

ありがとうございます。今おっしゃっていただいたところで言うと、まず、そもそも親が選ぶことができないっていう言葉として使われる分には全然いいけど、それも程度があるという点ですよね。

 

自分が贅沢したいから俺はハズレだったわみたいなのは何か違うけど、自分がそもそも充分に生活できない状態で、親ガチャが心の支えになるのであればいいんじゃないかっていうところですよね。

Aさん

そうですね。基準としては、傷付いたっていう体験に対しては使っていいと思っています。

 

一方で単純に思い通りにならないことがあったっていうときだけ、それだけで使うのは「ちょっと待て……」とは思いますね。

欲しいゲームを買ってもらえなかったから外れだったとか、そういうことではないと思います。

ごっちゃん

なるほど。そこの基準のところは逆にお聞きしたかった部分なので、傷付いたかどうかっていうところが、ある種線引きになるみたいなところは、すごく勉強になるなっていう形でお聞きしてました。ありがとうございます。 

Bさん

ほんとに今Aさんがおっしゃった通りだなって思いました。私もまだ上手にまとめられてないんですけど、本当に傷ついて親ガチャ失敗だったなって言った人を、「普通」って言ったらあかんとは思います。


普通のありふれた家庭(の人が)そんなこと言うなよ、みたいな、言葉が悪いみたいなことを否定しないで欲しいなっていうのはすごくありますね。


自分にしか分からないことってたくさんあるし、その家庭でどういうふうに扱われたとか、どれだけ傷ついたかも分からないし、人に否定されることでもないと思うので否定しないで欲しいとは思います。


やっぱりそういうふうに親ガチャという言葉を使うような人たちは、自分がその言葉を使って気持ちが楽になるから使っていると思うので、それを否定しないで欲しいなっていうのはすごく思ってますね。

ごっちゃん

ありがとうございます。親ガチャっていう言葉を使うことが、ある種その人にとって救いになっているのだから、親ガチャっていう言葉を使う人を非難するっていうのは避けて欲しいっていうことですよね、ありがとうございます。

Cさん

「親ガチャ」という言葉が流行ることは、いけない問題だなと思っています。

 

今までも「毒親」と「かアダルトチルドレン」とか、そういう言葉で親を責める言葉はたくさんありましたが、私がその言葉を知ったときはもっと、毒親とかアダルトチルドレンという言葉を使う人を責めているというか、自己責任論が強い風潮にあった気がします。

 

でも、今は自己責任論よりも「親ガチャ」っていう言葉に対して共感する人が増えてきたと感じます。その言葉が必要だから生まれているんだよって擁護してくれる人や大人がたくさん出てきてるなっていう印象を受けていますね。

 

自分を取り巻く言葉とか考え方をつまびらかにするような作業は新しい世界を見ているみたいだなって思いました。 人の心の中には劣等感とか重苦しいモヤモヤした感情があると私は思っています。

 

それは歪んだ社会構造を感知するためのシグナルじゃないかなって思っていて、この親ガチャ問題の本質的なところかなと思います。私としては親ガチャ外れた当たりだの何が問題かって、若い人に人生の役に立つ教育ができてないっていうところが問題だなと思っているんです。

 

教育っていうのは本来、全ての人が幸せになるために、すべての人に成長の機会を与えるためものなのに、その本質的な機能がものすごく歪曲されてて、ある人は生まれによって優越感を、ある人は生まれによって劣等感を植え付けるようなシステムになってしまっているのが本当に問題だなって。

 

抑圧されてきた人間は、社会が体系的に動いてるっていうことを見ることができなかったりその社会構造の問題に目を向けることができなかったりすると思うんです。

 

自分の不幸を”一時的”・”偶然”の結果という認識が自分の努力不足とか、能力不足として認識してしまう。そして、その不幸を仕方がないというふうに享受したり受け入れてしまうような構造になっているのが本当に許せないと思っています。

 

こういった社会構造の本質そのものが、貧困の問題だったり、差別の問題だったりに表層化してきているだけで本人は悪くないっていうことがすごく多いなとも思っています。

 

「親ガチャ」っていう言葉に対してすごく反発して否定的な人は、自分が有利な立場に居ることも多いんじゃないかなと思っているので、そういった人は抑圧を感じることも少ないし視野も狭いことが多いんじゃないかなとも感じています。

 

差別とか貧困が存在するということを理解できていない人を非難したりしんどい気持ちや苦しい気持ちを理解しないまま非難してしまう傾向があるんじゃないかなって。

 

だから現代社会に生きる人は、社会に対してずっと疑問を持ち続けることが大切だなと思っていて、世の中は本当に平等なのか、私が今まで苦しんできたことは本当に私の努力不足なのか、差別と関係ないのことなのか、誰かの無関心があるんじゃないかといった視野を広げる考察をして欲しいなと思っています。

 

こういうことを考えて考察する時間を設けるようにしない限り、当たり前に成り立っている社会秩序に無意識的に従って、自分は差別されたまま人のことも差別したまま、そのまま格差に加担するだけになってしまうこともあるんじゃないかなって。

 

こうやってRASHISAだったり、社会のために何かを成そうとしてくれる企業に加担して協力して、平等だとか人の幸せだとか権利とかいうのをみんなで実現していかないといけないなって思ってます。

ケネスクラークとマミークラークの人形実験

Cさん


親ガチャについていろいろ調べようと思って出てきたんですけど、その人の生まれっていうのをすごく象徴している実験があります。

1947年にケネスクラークとマミークラークが行った人形実験があるんですけど、幼い頃から内面化された偏見の効果をすごく表しているなと思っています。

「黒人形・白人形テスト」は黒人の子どもたち(6 〜 9歳)に白人の人形と黒人の人形を見せて,良い人形を教えて」「悪く見える人形を教えて」「自分と似ている人形を教えて」などと問いかけるものである。一連の実験においてマミーとケネスは,黒人の子どもたちでさえ,悪く見えるのは黒人の人形だとすることを劇的に示した。また,その後に自分に似ている人形を選ぶ時には,苦しさのあまり泣き出したり実験室から逃げ出したりする子どももいた。悪い人形として回答した黒人人形を自分に似ていると答えるのが苦しかったのであろう。しかし,ケネスによればもっとショックだったのは,むしろ,あきらめた表情で「悪い」黒人の人形を「自分と似ている」と答える子どもたちであった。その子どもたちは,社会の価値を内面化していたのであるから。

引用元:『心理学史の中の女性たち』日本心理学会

Cさん


この実験を見た時にこういうことがあってはいけないと心の底から思いました。こんな3歳とか7歳の子どもに、生まれた国だとか肌の色だとか性別だとかでなりたいものになれないっていうような社会にしてはいけないなあっていうふうに、「親ガチャ」っていう言葉を聞いてすごく思いました

ごっちゃん

Cさん、おっしゃってくれたところが、まさに僕は本質的な課題の部分だなと感じていたので、非常に共感できたところがあって、逆にAさんとかBさんがいってくださったことは、その場の「親ガチャ」という言葉を使う人たちの短期的な効果というか、心理的なところを表していると思うんです。

一方でCさんがおっしゃってくださったのは、親ガチャっていう言葉が生まれる社会のメカニズムが本質的な課題だよねっていうところで、それは虐待に限らず貧困だとか、そもそも人の不平等というものが、この親ガチャっていう言葉そのものを作り出しているから、そこが問題なんだよねっていうところをお話してくださったという認識ですよね。

まとめ(備忘録)

いかがでしたでしょうか?親ガチャという言葉そのものが毒親という表現よりもライトな使い方ができる一方で、使いどころは難しいという意見もありました。

また、親ガチャという言葉を使ったからといって、本人を気軽に責めるのはどうなのか?という意見もあり、きちんとその人がその言葉を使った意図を理解する必要もあるかもしれません。

また、社会構造そのものの変遷が示唆されるという意見もあり、非常に充実した意見交換の場となりました。本記事はあくまで虐待当事者の声を発信しているものですので、賛否両論あるかもしれませんが、いちメディアの記事としてみなさんの考える一つのきっかけになれば幸いです。

親ガチャという表現とどう向き合うか~虐待問題の解決に取り組むメンバーで対談してみた~

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この記事を書いた人

social port編集部

虐待被害当事者に役立つ情報発信を中心に行いsocial goodなメディアを目指しています。